2022年4月10日の礼拝は11時〜11時半。4月17日の礼拝は10時半〜11時半にイースター礼拝を予定しています。

2022年3月6日の礼拝は自宅礼拝となります。

⭐︎2022年2月13日と20日の礼拝は自宅礼拝となります。宣教動画もしくは音声のみの動画を当日中にYoutubeまたFacebookにアップします。

2021年12月19日(日)10:30より祝会があり楽器演奏や紙しばい「くつやのマルチン」があります。また11:00-11:30はクリスマス礼拝があります。12月24日(金)18:00- 燭火礼拝。どなたでも、お越しください。

2021919

小樽バプテスト教会

「枯れた骨でも」

エゼキエル書372節~6

 おはようございます。今朝このようにして皆さんと共に礼拝を捧げることが出来て嬉しく思います。先週の12日の日曜日は9月の執事会を持つことが出来ました。その中で話されたことの一部を週報の報告の欄に記載していますので、ご確認をお願いしたいと思います。先週の執事会で話し合われたことで大きなこととしては、今年度の3月末までは、緊急事態宣言などが発令されていても、基本的に集まっての礼拝を行う。ということです。ただ、これは皆さん是非出席してください。ということではなく、毎週の週報にも書いていただいているように、体調不良や不安がある方はお休みください。と、あくまでも出席する判断は、ご本人に委ねられているというスタンスです。また、先週までは教会に礼拝のため集まらない時には、礼拝担当執事とわたしで協力しながら、日曜の朝にはどこにいても同じ内容の週報と宣教が手元にあり、家庭礼拝を。と整えてきましたが、今後は礼拝は基本的に教会で集まって捧げる。ということが執事会で確認されましたので、その日、お休みだったメンバーの方には、その日以降に配達もしくは郵送。という形になります。

 さて、今朝の聖書箇所はエゼキエル書372節~6節です。ここには神さまがエゼキエルという預言者に幻を見せられる場面です。以前にも、神さまはエゼキエルがバビロンにいるにも関わらず、夢うつつの中、幻を見せ、その中で彼をエルサレムに連れて行かれたことがありました。実は今日登場する枯れた骨が沢山ある谷というのも、エルサレム市内にあるヒンノムの谷という場所がモチーフになっているのではないかと思います。ヒンノムの谷という場所はエルサレムの南端に位置する谷で、そこには、処刑された人の遺体や、きちんと葬られなかった遺体が埋められ、またゴミが常に燃やされ、火が常に見えることから、ゲヘナ、地獄、とも呼ばれていた場所でした。おそらくエゼキエルがこの幻を見た時には、具体的に彼が見たことがあったこのエルサレムのヒンノムの谷の嫌な雰囲気。どことなく絶望と諦めが漂うような、力奪われる光景と重なったのではないかと想像します。 

 昨日の聖書日課がちょうど創世記11節~5節でした。初めに神さまが天と地を創造された。最初の最初にはそこには混沌と闇が覆っており、そこに神の霊がうごめいていた。というところです。一説によると、この創世記の天地創造の部分が文章としてまとめられ残されたのは、この今日のエゼキエル書のエゼキエルが生きていた時代のバビロン捕囚の時代だったと言われています。つまり、創世記1章、世界の初めに登場している混沌と闇というのは、単に遠い遠い昔、どこかイメージの中だけで混沌と闇があった。ということではなく、創世記を取りまとめ文章として残した人たちは自分たちが今置かれている、生かされている、そんな時代にも存在する混沌、混乱と闇と重ねながら、それでもなお、神さまの霊がそのような絶望、諦め、無力感の中にも生きて働いておられた。そして、光あれ、と神さまが命じられると、そこに光が生まれ、一つ一つ神さまの御手により造られ、生きるものとなっていったことに気づかされます。天地創造が描かれている、創世記のとりわけ1章1節~5節に着目してみますと、神さまが人間を造ったり、動物を造る、その前にまず環境を整えてくださっていたこと、そして昼と夜を分けた。光と闇を分けた。というように、一つ一つ整理整頓し、順調に物事が進むように、人が生きやすいようにと、細部にわたって整えてくださっていた。ということが、よく分かります。ヨハネによる福音書11節~5節の「初めに言があった。言は神と共にあった」というところも、この創世記の1章冒頭の部分と平行しているとも言われています。神さまがイエスさまを、この暗い世界に、光としてくださった、そのことをおぼえたいと思います。イエスさまが光として、この世界に来てくださいましたが、それは自分自身がキラキラと輝く形での光ではありませんでした。そうではなく、光としてのイエスさまは、他者に赦しと命を与える。将来と希望とを与える、そのようなあり方でした。神は光あれと言われた。こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神さまがこの世界の初めに光を創り、それを見て「良し」とされた。この「良し」はトーブというヘブライ語です。白石教会、現平岡ジョイフルチャペルで以前牧師として仕えて下さった小林洋一先生という先生の説教の中に「神はトーブ」というものがありました。日本語に訳すと、神さまは良い。という意味です。小林先生はインドプリの働きを支援する里親の会の共同代表を松本姉と一緒にして下さっている先生でもありますが、いつも独特なユーモアをもってお話しをしてくださる先生で、この「神はトーブ」という宣教をして下さった時を思い出します。その時も、みなさん、決して間違えないでください。豆腐じゃないですよ。トーブです。ヘブライ語で、良い、というのをトーブと言うんですよ。わかりましたか。と、ヘブライ語の授業のように、半分冗談で、でもその「豆腐ではない」。という一言が入ったので、みんな自然と、豆腐と似ているあの言葉なんだっけ、という具合にトーブというヘブライ語をおぼえてしまうのです。神さまが光であるイエスさまを創られた、その時にそれを見て「良し」とされた。そしてこの「良い」という言葉は、優秀とか形が良い、ということではなく、感じが良い。同意しやすい。良い。という意味があります。先週、この教会と繋がりのある方の働いておられるぶどう畑から、ぶどうを沢山分けていただきました。とても甘く、またいただく時に、その方が来る日も来る日も、朝まだ暗いうちに家を出て、帰りは日が暮れてから。朝から夕方になるまで外で汗を流しながら心を込めて手入れされていた、そのぶどうは本当に美味しく感じました。イエスさまというぶどうの幹に繋がっているわたしたちは、その「良い」お方から日々養いを受け、命を受け、水分を受け、成長することができます。命と喜びと祝福に満ちたそのようなぶどうを食べる機会がこの季節、特に小樽では多いと思いますが、命と喜びと祝福を与えるイエスさまに繋がっているわたしたちが、また命と喜びと祝福を分かち合うことが出来るようにと願いながら季節を楽しみたいと思います。

 今日のエゼキエル書37章に戻ります。週報の表紙にもその部分の御言葉を載せてくださっています。ここにはカラッカラに渇ききった骨が登場します。神さまは「これらの骨は生き返ることが出来るか」と尋ねますが、エゼキエルは「神さま、それは、あなただけがご存知です」と答えています。そして、それを聞いた神さまは今度はエゼキエルに「あなたはこれらの骨に預言して言いなさい。主の言葉を聞け。わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉をつけ、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そしてお前たちは、わたしが主であることを知るようになる」と言われました。

 ここでエゼキエルが幻の中で見ている渇ききった骨は、元南ユダ王国の国民のことです。かつては、エルサレムという緑に囲まれ、良い物で満たされ、祈りの象徴のようなお香の煙が暗い神殿の中に美しく立ちのぼり、金や銀で出来た儀式のための什器がある場所が彼らの憩いの場、礼拝の場でした。しかし、今や、全くの異国の右も左も分からない、言葉もよく通じない、宗教もよく分からないまま異国の宗教を押し付けられそうな、そんなバビロンに置かれた元南ユダ王国の人たちの心の状態が、まさに渇ききった骨でした。ちょっと元気がないとか、やる気が出ないとか、少し休めば回復する。というレベルではなく、もはや国民全体が絶望し、将来と希望をどう絞り出そうとしても、もう出ない。というところまで、絶望の淵に置かれていたのが、この時の元南ユダ王国の国民の姿でした。

 今年の夏、特に北海道は雨の日が少なかったと思います。先日テレビで、ブロッコリーの畑で、約9000株のブロッコリーが収穫できないほどの出来の悪さだという映像を見ました。それは、ほったらかしにしていた畑ではなく、もちろん来る日も来る日も、水をやり、土を整え、出来ることは全てやった結果がそれでした。本当に気の毒としか言いようがない状態でした。エゼキエルもそれに近い状態だったと思います。エルサレムで全てが輝き、安定し、良い状態であった時代を知っている祭司エゼキエルとしては、バビロンに王もろともに連行され、次第に人々が力を失い、希望を失いゆく中でも、神さまにあって、将来と希望がある。といくら心を込めて、時に断食をして、そして、出来ることはすべて最善を尽くしながら宣言し続けても、目の前にいる人たちは日に日に目の光が失われてゆき、元気を失い、生きているだけでも辛い。そんな姿を目の当たりにして、エゼキエル自身が、信仰を失いそうになっていたのだと思います。しかし神さまは、エゼキエルを遣わし、預言の言葉を与え、行って語れ。呼ばわれ、と命じられることで、エゼキエルが語る言葉は、エゼキエルの思いつく励ましや慰めの言葉ではなく、ただただ神さまからその民に語られた、純粋な語りかけであると彼自身が気づかされてゆくのでした。

 神さまは憐れみ深いお方で、消えかけたろうそくの火を消してしまうことをなさいません。そして、折れかけた葦の茎を折ってしまうこともなさいません。どんなに「もう終わりだ」と見える人に対しても、「生きなさい」「生きていなさい」と語りかけられるのです。この世は、どれだけ多くのことを達成したか、またどれだけ良い結果を残せたか、どれだけ多くの人の人生に影響を与えたか、ということで人を評価しようとします。わたし自身反省させられますが、初めてお会いした方には、お仕事は何をされていますか?と何の悪気もなく、質問をしてしまいます。けれども、神さまの目から見ると、わたしたちがどんな職業でも、立場でも、どんな状況にあっても、変わらず、わたしたちを神さまの子どもとして見ていてくださいます。わたしたちは、ともすれば人と自分を比べ、自分は頑張りが足りないとか、自分はあまり人から好かれていない、とか、誰も自分なんかに声をかけてくれない。と、比較する中で自分を必要以上に低く見る。自分の気持ちを落として暗い気持ちになる時があります。

 けれども、イエスさまが、その命を差し出して、わたしたちが輝いて喜んで生きるようにと赦し、その十字架で死んで復活された。そのことは重い事実です。せっかくイエスさまが、わたしたちが喜んで生きるようにと、感謝して日々過ごすようにと与えてくださった赦された命を、そこまで神さまが整えて備えてくださっているにも関わらず、「わたしなんか」と卑下することがあっては、本当にイエスさまのあの十字架が虚しいものとなってしまいます。赦されている。そして生かされている。ということは、なんと素晴らしいことでしょうか。最近、遠方に住むある親しい方が命が危ない状況になったと連絡を受けました。わたしは涙を流しながら必死に祈りました。神さまどうぞ、彼女を生かしてください。憐れんでください。繰り返しそう祈る中で、わたしは厚かましくも、ただ彼女を生かしてください。ということだけでなく、どうぞ、神さま、彼女を生かし、そして喜びと祝福で満たしてください。どうぞ、祝福してください!と祈るようになりました。そしてその方は本当に感謝なことに一命をとりとめました。神さまが憐れんでくださったのだと信じます。

 わたしたちは、本当にこの命が危ない。という状況に直面し、実感しなければ、生かされているということにさえ、ほとんど気づかず、人のことを時に悪く言ってしまったり、人が不快に思うような行動をとったりしてしまうことがあります。しかし、神さまがこの渇ききった骨のようなわたしを、わたしたちを今なお生かし、赦し、喜びと祝福で満たそうと朝ごとに恵みをくださることに気づく時に、わたしたちはもはや、不平不満を人にぶつけたり、感謝を忘れ愚痴を言ったり、人が不快に思ったり傷つく言葉を発することは出来ないのだと思います。ただ、わたしたちの心がけに増して、もっともっと大きなお方である神さまが、わたしたちがどれだけ、お行儀が悪く、悲観的で、祈ることさえ忘れてしまうような時でも、変わらず雨を降らせ、太陽をのぼらせ、そんな、わたしたちのためにも、イエスさまを送ってくださっています。神さま、わたしたちは何も出来ません。将来を展望することも出来ません。力が出ません。そんなバビロンにいた人たちにも神さまは、それでもなお、場所など、状況など全く関係ないかのように、神さまは、エゼキエルを通して「生きよ。悔い改めよ。わたしが与える霊を受けよ」と命じられます。

 霊は、息とも訳される言葉です。神さまが今日もわたしたち一人一人に、そして共に、神さまの霊を、わたしたちの上に降り注いでいてくださり、わたしたちの固くなった心を柔らかにし、上よりの喜びと平和を与えてくださいます。わたしたち人間の頑張りや心持ちでは到底生み出せない、またわたしたちのどんな努力でも造り出せない、そのような忍耐と希望と信仰を神さまが、わたしたちが祈り求める時に与えてくださいます。

 今日も、神さまがわたしたちの上に注いでくださる神さまの霊を共に受け取り、その神さまの聖霊を受けたわたしたちは、その清らかさと、強さと、人を生かし、励まし、力を与え、回復させる、そのような愛をもって、この日を共に神さまに捧げて参りましょう。どんなに渇ききった骨であったとしても、必ずそこに神さまの霊が注がれ、回復をすることが出来る。息を吹き返すことが出来る。そのことを信じて、神さまにある勝利を宣言して参りましょう。

お知らせ:2021年9月19日から教会での礼拝を再開します。礼拝時間は11時〜11時半です。

2021.9.12.

小樽バプテスト教会

礼拝宣教

「植物を植えるように」エゼキエル書3634節~38

 

 おはようございます。今朝このようにして、場所はそれぞれですが心を合わせて礼拝を捧げることが出来ることを神さまに感謝致します。今朝も聖書教育の今日の箇所から引き続き御言葉に聴いて参りたいと思います。エゼキエル書の学びを始めた時に、このエゼキエル書という書物のキーワードとなる言葉が2つあると申し上げました。1つ目は「悔い改め」、そして2つ目は「希望」です。先週もお話ししましたが、わたしたちが朝ごとに聖書の御言葉をいただく度に、そこに「悔い改め」の思いや「謙遜に聴く」姿勢がなければ、それは大変もったいない聖書の読み方です。エゼキエルはバビロン捕囚の前、そしてバビロン捕囚の最中も繰り返し、悔い改めて主なる神の元へ立ち帰れと呼びかけ続けていますが、それは、2021年を生きるわたしたちにも、そのまま当てはまめることが出来る知恵の言葉です。朝ごとに、わたしたちはカーテンを開けて日の光を浴びるように、朝ごとに、わたしたちは聖書を開いて聖書の御言葉の光を十分に浴びる中で、軌道修正をしながら健やかに歩むことが出来ます。エゼキエル書における2つ目のキーワードは、「希望」です。皆さんは、希望という言葉を聴く時にどんな場面を思い起こされるでしょうか?春になると1年生が黄色い帽子をかぶって手を挙げて横断歩道を渡っている。長い冬が終わり、庭先に今年で最初の花が咲いた。杖なしで歩けなかった人が、杖なしで歩けるようになった。人によって、「希望といえば」で思い出す場面がそれぞれにあるのだと思います。わたしは、神学生の時に研修旅行での出来事を思い起こします。研修のため生徒7名と先生1名で訪れたタイの山の方にあるミャンマーに程近いところで、アメリカのCBFという団体から派遣されていた宣教師の先生が、現地で農業指導をされていた場面です。具体的には、良い土で野菜や花の苗を育てることが出来るようにと豚を飼い、そして肥料を作って、小さなプランターにその肥料と土を混ぜたものを丁寧にいれて、野菜や花の種を植え、ビニールハウスの中である程度大きくなったら、それを現地の貧しい方々にお分けして、それを受け取った方々がそれらを最後まで育てて野菜や花を売って収入を得るという、手助けをする活動を見せていただきました。わたしたち神学生7名でその作業のお手伝いを体験させていただきました。たった一日お手伝いしただけでも、腰が痛くなりますし、この種を植える段階では丁寧に一つひとつ仕上げても、芽が出て少し大きくなったものを受け取った人が、ちゃんと育ててくれなかったら、この努力は水の泡になるのでは、ということさえ少し不安になりました。でも、その宣教師の先生ご夫妻は淡々と現地の協力者の方々と一緒に不便な山の中で、その作業に祈りつつ取り組んでおられました。先週火曜日の、聖書日課はエレミヤ書24章の1節~7節でした。その中に、エレミヤが幻を見て、そこには神殿の前にいちじくを盛った籠があり、神さまは、バビロンに連れて行かれた民を、この良い方のいちじくとして見なす。と言われました。良い方のいちじくと見なして、恵みを与え、この地に連れ戻し、植えて、抜くことはない。と言われました。エレミヤもエゼキエルと同じ時期に南ユダ王国の預言者として活動していた人ですから、メッセージの一部はエゼキエルと重なるところがあります。

 神さまは、南ユダ王国の国民が、バビロンに捕虜として連れて行かれた後、自分たちのアイデンティティーの中心であったあの立派なエルサレム神殿が破壊され、王の目はくり抜かれ、手足は鎖で繋がれ、そんな状況の中で、元気を失うどころか思考停止状態となり、あまりにも酷いことが続いたので、痛みを痛みとも感じないような異常な状態にさえ陥りました。自分たちにとって、尊敬する対象であった王が酷い仕打ちを受け、また自分たちが子どもの頃から家族で祭の度ごとに、丘を上り、羊や燔祭のための動物を連れて礼拝のため訪れていた特別な場所である神殿が破壊された時、彼らは、自分たちの存在意義さえも、もはや見出せなくなる辛い状態におかれました。わたしたちはよく、初めてお会いした方に、「どちらの出身ですか?」と尋ねますけれども、当時バビロンにいた元南ユダ王国出身の人たちは、もしそこで初めて会う人に、どちら出身ですか?と尋ねられても、胸を張って「ユダ王国です」とは言えない、そんな状態でありました。自信を失い、誇っていたものを多く失い、宗教的、文化的な財産も目に見えるもの、手に触れることが出来るものは、ほぼ失い、ズタズタにされていた彼らに神さまはエレミヤを通して「わたしは、あなた方を良い方のいちじくと見なして、この地に連れ戻し、植える」。と言ってくださいました。

 聖書には植物が沢山登場しますが、旧約聖書で一番最初に植物の名前が登場するのは、いちじくです。アダムとエバが食べてはいけないと言われていた木から取って食べて自分たちが裸であると気づいた時に、その裸を隠したのが、いちじくの葉っぱでした。神さまは、わたしたちが良い者として生きることを前提として、あのエデンの園を造って下さいました。わたしたち人間には弱さやずるさや、意図していなくても人を傷つけてしまうようなもろさや、歪みがあるに関わらず、それでもなお、神さまは、わたしたちを良い者」と見なして、それを前提にすべてのものを整えて、準備し、備えて与えてくださっています。あの暑いタイの山奥で、淡々と来る日も来る日も、笑顔で土と肥料に手が汚れることも気にせずに、ただただ祈りながら苗を育てておられた宣教師の先生たちの姿と、神さまが、わたしたちをただただ、本当はそれほどまでに信頼される価が無いにも関わらず、いや、かえって、信頼はもうされないような姿勢や行いや言葉の過去があったとしても、変わらずに信頼し、期待し、「これらを最大限に用いて増やして、役に立てなさい」と、わたしたちの手に「信仰」と「希望」と「愛」を、まるで植物を植えるかのように、大切に大切に託してくださっています。

 今朝のエゼキエル書の御言葉に戻ります。ここには荒れ果てた地がエデンの園の様になった。廃墟のようになっていた所に人が満ち溢れ、城壁がその場所を囲み、人が住むようになった。とあります。破壊された後のエルサレム神殿跡には瓦礫が散らばり、草が生い茂り、人が、あまり行きたくない場所となっていました。けれども、神さまはその場所を新たに建て直し、城壁で囲み、人が住むように。そしてエデンの園の様に緑と水で潤う麗しい場所として下さる。ということがここに書かれています。そしてそれは、エルサレムという特定の場所だけでなく、そこに集う礼拝する群れである元南ユダ王国の国民一人ひとりの心に、信仰が、その中に神さまが植えて下さった真の希望の種が植えられていて、共に、自発的に喜びと感謝をそれぞれの腕に携えて、主の宮に礼拝のために自らの足で上る、という情景をエゼキエルはここで描いています。

 神さまが、わたしたちに与えて下さっている、昔々から、綿密に準備し備えて下さった最善の「植物」「希望のしるし」は何でしょうか?それは、エッサイの根から生え出た芽とイザヤ書で預言されているイエス・キリストです。マタイによる福音書1章にイエス・キリストの系図が書かれていますが、ここを見ると、これは神さまが計画され、綿密に練り上げ仕上げて下さった系図、家系図にも関わらず、この中には、出来ることならば伏せておきたい様な関係や、罪、欠け、弱さがパッと見るだけでも、浮かび上がってきます。にも関わらず神さまは、わたしたちの側の多くの弱さや罪や足りなさや自己中心的な思惑のすべてを悠々と上回る形で、イエスさまという最善の希望を、贈り物を、わたしたちのために与えて下さいました。

 神さまは聖書において、植物を植えて下さる農夫にたとえられる箇所もあり、また、羊飼いにたとえられる箇所もあります。農夫にも、羊飼いにも共通している特徴は、忍耐を持って時を過ごす。農夫は雨の季節が続けば、待つしかなく、また、虫や日照りで農作物がだめになったとしても、じっと次の植えるタイミングを待ち、そのための備えを日々怠らない。ということがあります。また、羊飼いも、「待つ、そこに腰を据える」ということが大切な働きの一つです。東京の上智大学におられたヘルマン・ホイヴェルス先生というドイツ人のカトリックの先生が書いた「人生の秋に」という本があります。その中で先生は、小さい頃は自分の大叔父の様に羊飼いになりたかった。と書いています。しかし、小さい頃、大叔父について行き、一日羊飼いの仕事を体験してみたが、それは思っていたのと違ったといいます。朝早く羊たちを囲いから出して野原に連れて行きます。朝出かける時には軽い昼食を持って行きますが、午前中と午後、長い長い間、大叔父は放牧している羊たちを時々、見回しながらも座って編み物をしたり小さな聖書を取り出しては、ゆったりと草原で過ごしており、自分とお兄さんは、暇をもて余して、次の日からは、ついて行かないことにし、将来のなりたいものも、羊飼いではなくなった。ということです。このことから、羊飼いの大切な働きは、忍耐をもってそこで時間をしっかりと羊たちを遠く近くから見守りながら過ごす。ということだと分かります。

 神さまは、わたしたちが成長して良い実を結ぶようになるには長い時間と忍耐と愛を注ぎ続けることが必要ということを、よく分かった上で、それでもなお、わたしたちにその時間と忍耐と愛を注いで下さるお方です。

 神さまが今朝も、ほほ笑みながら、期待をし、楽しみにしながら、わたしたちが一つ一つの「希望の種」をよく見つけることが出来、それらを集めて繋ぎ合わせ、育てて、共に神さまの計画されておられる神の国を拡げようとされておられます。神の国について、それは、わたしたちがやがて天に召されていった時に入る場所だけでなく、その一部がすでに、わたしたちのいま、置かれているこの地上にも、神を信じ祈り礼拝するわたしたちの間にもある。とイエスさまは宣言して下さっています。

 大切なことは、神さま御自身がその神の国建設において総監督である。ということです。わたしがそれを建てると言って下さっています。わたしたちは朝ごとに心を静めて聖書の御言葉をしっかりと時間をとって味わい、互いのことを祈りにおぼえながら、この地上においても神さまの愛と憐れみが豊かに隅々にわたるまで行き渡りますようにと祈りつつ、一日一日を大切に過ごして参りたいと思います。

 一言、お祈りいたします。

愛と憐れみに富みたもう父なる神さま、今朝このようにして、場所は違えど、心を一つにし、あなたに向かって祈り、礼拝を捧げる仲間が与えられていることを、心から感謝いたします。ある者は病を負い、ある者は体や心に痛みを負いつつ、この祈りの座に招かれました。わたしたちが負っている重荷を、主よ、あなたが誰よりもよく知っていて下さることを感謝します。今朝も聖書の御言葉を通して、わたしたちに慰めと励ましを送って下さったことをありがとうございます。御言葉を受けたわたしたちは、これを感謝して、神さまからこの一週間の旅路へと遣わされた使者として、愛と憐れみを携えここから派遣されてゆくことが出来ますように、わたしたちを清め、用いてください。

 この世の旅路を歩む中で、どれだけ祈っても、どれだけ望んでも、どれだけ努力を重ねて尽力しても、開かれない扉がある時に、主よ、どうぞ、そこで落胆し、うずくまり、思考停止に陥るのではなく、天を見上げ、神さま、あなたの御旨を示してください。あなたの御心が成りますように。わたしの頑なな心を打ち砕き、聖霊の雨を注ぎ、柔らかくして、御業のために用いてくださいと祈る心を与えてください。

 神さま、いまなおミャンマーでは戦いが、食糧不足が、新型コロナウィルス蔓延による死者が増加の一途を辿っています。神さま、どうぞ、平和を与えてください。そして必要をこの日、満たしてください。わたしたちに出来る祈りを日々、諦めることなく続ける信仰を与えて下さい。また神さま、わたしたちの仲間でいまこの時にも病院におられる方々がおられます。どうぞ、あなたが平安と癒しとを与えてくださいますように。わたしたちはこれからも日々祈りを通してしっかりと繋がることが出来ますように、わたしたちに信仰を増し加えてください。

 感染病が拡大し、様々な活動が制限される中で、閉塞感をおぼえています。この状況が続く中で経済的、精神的、社会的貧困が拡がっています。どうぞ、神さま、一日も早くこの状況が終わり、みなが健やかに安心して過ごすことが出来ますように。また、このような状況に置かれて初めて気づかされる多くの恵みを数えながら、互いを労わりあい、励ましあいながら歩む群れとしてください。

 このお祈りをイエスさまの御名前を通して御前に、お捧げいたします。アーメン



https://youtu.be/YyEQMHyfYzc  2021年9月5日 家庭礼拝のための音声



2021年9月5日、12日は緊急事態宣言発令に伴い家庭礼拝となります。Youtube小樽バプテスト教会チャンネルより5日は朝8時より家庭礼拝のための音声を公開します。ご利用ください。




2021年6月27日より教会での集会としての礼拝を再開します。時間は11時から11時半。

7月中は礼拝以外の集会、活動はお休みとなります。

 

※6月27日からはfacebook, Youtube,こちらのホームページへの動画公開が夜9時以降となります。

2021年6月20日も自宅での礼拝とさせていただきます。27日から再開予定です。礼拝の時間は11時〜11時半です。

2021年6月6日、13日の礼拝は感染拡大防止対策として教会の会堂での礼拝は行いません。一日も早く新型コロナウィルスが終息するようお祈りいたします。

2021年5月16日、23日、30日の礼拝は新型コロナウィルス感染拡大防止対策として、教会の会堂での礼拝は行いません。動画は当日朝8時頃YouTubeチャンネルおよびfacebookで公開いたします。

Youtubeの小樽バプテスト教会ページで毎週のメッセージを動画配信しています。

5月末まで引き続き自宅での礼拝、祈祷会とすることを執事会で決定しました。

おはようございます。日本バプテスト連盟から発行されているバプテスト誌の4月号と5月号が日本バプテスト連盟のホームページのトップページの What's new 2020.4.22. と書いてあるところをクリックすると今なら無料で読むことができます。

 

ちなみに4月号には小樽バプテスト教会も登場します。

重要なお知らせ 2020年4月19日〜5月6日の間、新型コロナウィルス感染拡大を受け、小樽バプテスト教会では教会での礼拝、祈祷会などを休止とします。それぞれのご自宅で礼拝をお願いします。

2020年3月8日 宣教原稿をお知らせページにアップしました。ご利用ください。

☆2020年3月15日(日)より11時からの礼拝を再開します。教会学校、お茶、昼食、午後の会議などはありません。マスクの着用をお願いします。

※お知らせ コロナウィルス感染拡大に伴い3月1日〜14日まで当教会を会場として予定していた全ての集会、プログラムを休止といたします。皆さまの健康をお祈りしています。

お知らせのページに2020年3月1日、3月8日の宣教原稿を載せています。ご自宅で礼拝される方はお読みください。

 

 

どんな教会?

歴史

小樽バプテスト教会は1954年6月に小樽労働会館(現・「小樽市民センターマリンホール」色内2丁目)にて伝道を開始しました。   

 

1955年に現在の小樽市奥沢一丁目の土地、建物を購入しました。

 

1958年 札幌バプテスト教会から独立し、小樽バプテスト教会が組織され現在の建物が建てられました。

教派

小樽バプテスト教会はプロテスタントのバプテストという教派の教会です。米国のジミー・カーター元大統領やマーチン・ルーサー・キング牧師もバプテストの方々です。 

 

小樽バプテスト教会は日本バプテスト連盟に加盟しています。近隣の同団体に加盟している教会は札幌市の札幌バプテスト教会があります。

地域との繋がり

1960年代には米国からの宣教師であったアニー・フーバー先生のチームが読書センターを開設し、英会話・ピアノ教室を開いていました。     

 

今でも小樽バプテスト教会では三浦綾子読書会を定期的に開催したり、様々なコンサートを開催しています。


日曜日は教会へ


小樽バプテスト教会では毎週日曜朝11時から12時まで礼拝を行っています。讃美歌を歌い、聖書のお話を聞き、心を静めて祈る時です。どうぞおこしください。貸し出し用の聖書、讃美歌もあります。また分からないことはお問い合わせください。